■平塚に生きた囲碁の求道者
・大竹英雄名誉碁聖
・故加藤正夫名誉王座 ・二十四世本因坊秀芳
・戸沢昭宣九段
明治42年1月、神戸に生まれた木谷實は、幼い時から碁・将棋に親しみ、父十作の影響もあって、8歳で鳥居鍋次郎初段に入門、本格的なプロを目指し、囲碁棋士の道を歩みます。
その後、久保松勝喜代四段門下となり、大正10年、12歳の時、久保松の紹介で鈴木為次郎六段の内弟子となって上京。
大正13年7月、日本棋院が創設されると、木谷は弱冠15歳で初段プロ棋士としてデビューします。
木谷17歳の時、当時としては珍しいダブル昇段を遂げ三段に昇段。東京日日新聞の新進打切棋戦で10人抜きを達成、「怪童丸」の異名をとりました。
昭和2年、木谷18歳、四段の時、日本棋院と棋正社との対抗戦で8人抜きを成し遂げ、新進木谷の声価は決定づけられ、続いて昭和4年春の大手合で優勝。
昭和6年、22歳の秋に柴野美春と結婚。昭和8年の秋には、天才棋士呉清源とともに「新布石」を発表します。この「新布石」を紹介する昭和9年発刊の「囲碁革命新布石法」は、10万部以上を売り尽くした当時のベストセラーです。
昭和12年夏、大磯町から平塚に転居。その後、桃浜町に居を移して「平塚木谷道場」を開設します。
昭和13年6月、29歳の時、本因坊秀哉名人の「引退碁」の挑戦者となり、一局に6か月を費やした勝負に5目勝ちを収め、ますます木谷實の名は高まります。
なお平塚に開設された「木谷道場」には、全国は基より韓国からも才能豊かな弟子が集まり、ここで木谷は戦前・戦後を通し、一貫してプロの囲碁棋士を育てます。
その結果、大平修三・岩田達明・戸沢昭宣・大竹英雄・石田芳夫・加藤正夫・趙治勲・小林光一・武宮正樹らの各氏九段等、多くのプロ棋士が生まれ育ちました。
その人材の多くは、木谷實が全国で行った指導碁(稽古碁)の際に見出された子供たちで、木谷はこの子供たちを何不自由なく囲碁だけに集中できる環境と場所を自宅に確保し、自分の子供と同じように愛おしみ育んだのでした。それが結果的に50名を超えるプロ棋士の養成につながり、その内弟子たちにより現在も棋聖・名人・本因坊などの各種タイトルを取り合う状況が続いています。
(文化情報誌「たわわ」第22号、平成9年9月15日号、”シリーズひらつかの人”より抜粋)
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▲木谷實と三女禮子(故人)
▲木谷道場の仲間(昭和34年頃)
前列左から石田、佐藤、加藤。
後列左から春山、久島、上村
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